富増章成 受験の日本史

授業の補足、自宅学習の人もがんばってね。

オレも暇なやつだ…

●山川の教科書より

「マッチョ」から連想される用語を意味もなく選んでみた

 

貯蔵穴 p14

マッチョぞうけつ

 

マッ超越した存在 八角墳 p32

 

南朝にマッ朝貢 p32

 

高句麗僧 曇徴(どんちょう)p36

        マッチョウ

 

皇極天皇のマッ重祚(ちょうそ) p39

 

マッ調・庸・雑徭 p42

 

唐の都 マッ長安 p44

 

政務・儀礼の場である大極殿とマッ朝堂院 p46

 

国府国衙)には、政務・儀礼をおこなうマッチョ(国庁・こくちょう)が設けられた p47

 

孝謙太上天皇が看病に当たった道鏡をマッ寵愛した 

孝謙太上天皇はマッ重祚した p51

 

夫婦は結婚しても別姓のままで、また自分の財産をもっていた。

律令では中国の家父マッチョ制的な家族制度にならった。(家父長制)p52

 

722年 百マッチョウ歩開墾計画 p53

 

正倉院に伝わるマッちょうもうりゅうじょびょうぶ(鳥毛立女屏風) p59

 

城柵はマッチョ(政庁)を中心として外郭の中に実務を行う役所群・倉庫群が配置された

p61

 

平生太上天皇はみずから出家し、そのマッ寵愛を受けた藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原の仲成は射殺された。 p62

 

天皇もマッチョくしでん(勅旨田)と呼ぶ田をもち、皇族にも天皇から賜田(しでん)が与えられた p63

 

814年に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』といった3つのマッ勅撰漢詩集があいついで編まれた。p64

 

風信帖 空海がマッチョに送った書状である。(最澄)p67

 

室生寺弥勒堂釈迦如来がマッチョ

p67

 

村上天皇は「マッチョウ十二銭」の最後となった乾元大宝を発行した(958年) p69

 

10世紀末のマッチョウねんが持ち帰った釈迦如来像は京都嵯峨の清凉寺に安置された。奝然)p72

 

勅撰和歌集である『古今和歌集』の繊細で技巧的な歌風は古今マッチョ風と呼ばれた。 p73

 

仏師 じょうまっちょは、一木造りに変わる寄木造の手法を完成した。(定朝、じょうちょう)

この頃、マッチョウ思想が広まった。 p76(末法思想

 

収入の多い官職に再任してもらうマッチョウ任が行われるようになった。 p80(重任、ちょうにん)

 

押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族の中には,そのままマッチョ官人などになって現地に残った。p82(在庁官人)

 

1086 上皇は院のマッチョを開いた。 p87(院庁)

 

まっ鳥獣戯画 p94

 

幕府は、禅宗の本格的寺院であるマッちょう寺を造営した。p104(建長寺

 

鴨のマッチョウ明は『方丈記』を著して、世の中はむなしいと説いた。p116

 

説話文学では、承久の乱後に『古今マッ著聞集』など多くの作品が生まれた。 p117

 

マッ重源は、勧進上人となって、陳和卿の協力を得て東大寺再建にあたった。 p117

 

東大寺南大門金剛力士像がマッチョ

p119

 

吉野の南マッチョ(大覚寺統)と京都の北マッチョ(持明院統)が対立して、以後、約60年にわたる南北マッチョの動乱が始まった。(南北朝時代)。 p122

 

疲れてきたので終わります。