日本では、足利義満が日明貿易(朝貢貿易)をおこなっていましたが、明はムスリムの宦官である鄭和(ていわ)の率いる大簡単を東南アジア・インド洋に派遣して、この方面にも釣行を要求しました。
P26 「朝貢関係においては、中心国は周辺国に対して大国の度量を示すため、貢物の数倍の価値のある返礼品を与えることが一般的であり、朝貢を通じて明から与えられる銅銭や生糸・絹織物などは、周辺国の経済を活性化させた。しかし一方で明は、体外公益を政府の管理する朝貢貿易に限ったため、民間の自由な貿易は阻害された」
(山川出版社 歴史総合より)
あの美術品コレクターの足利義政が将軍になったとき(1453、ゴロ:いよ!ゴミ将軍)、西アジア・南アジアでは、オスマン帝国・サファーヴィー朝・ムガル帝国という3つのイスラーム帝国がありました。
オスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープル(のちイスタンブル)を征服、ビザンツ帝国は滅びました。
★ネトフリで見られます。『オスマン帝国 皇帝たちの夜明け』
オスマン帝国は、スレイマン1世のとき極盛(1529年にウィーンを攻撃)
日本史では、1510年三浦の乱、1523年寧波の乱のころです。
スレイマン1世は北アフリカからイラク・ハンガリーまでを帝国の領域とし、イスラーム法にもとづく政治を行いました。キリスト教徒・ユダヤ教徒には自治を認めて、ムスリムとの共存をしました。
地中海貿易で、フランスなどのヨーロッパ人が、領内で居住と通商の自由が公認されました(カピチュレーション)。
(山川出版社 歴史総合より)
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