盲点的なところを読み直そう!
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11代将軍徳川家斉は、松平定信が老中を辞任したのち、文化・文政期を中心に、1837(天保8)年に将軍職を徳川家慶にゆずったあとも、大御所として実権を握り続けた(大御所政治)。
約50年間の家斉の治世のうち文化年間(1804〜18年)までは寛政の改革の質素倹約が受け継がれた。
★家斉も質素倹約していたんですね。でも、とちゅうでブチ切れて、金を使い始めます。文政小判です。
これによって
…物価は上昇したが幕府財政は潤い将軍や大奥の生活は華美になった。また商人の経済活動も活発になり、都市を中心に庶民文化の花が開くことにもなった。
★これが化政文化(江戸中心)です。
異国船打払令(無二念打払令)
清・朝鮮・琉球の船は対象外で、オランダ船は長崎以外の場所では打ち払うことにした。
★オランダ船も打ち払われるとは強烈ですね。
従来対等とされた朝鮮からの使節(朝鮮通信使)を1811(文化8)年、それまでの江戸にかえて対馬への派遣とさせた(易地聘礼(えきちへんれい))のは、経費節減とともに、新たな強国を対等とする考えから、朝鮮を対等とすることに異論が出たことも理由となった。
★最後の朝鮮通信使となった1811年の朝鮮通信使は、それまでの江戸城ではなく、対馬で日朝間の国家儀礼を行うように変更されたということです(「易地聘礼」)。
…関東取締出役…最初は8名で2人1組
★こういうのは、早稲田大学的な問題に出そうです。
P238
お救い小屋
P239
★印旛沼といえば田沼意次ですが、あのときは町人請負新田です。
今度は、再チャレンジで幕府直轄です。
人返しの法(人返し令)
この強制で、無宿人や浪人らも江戸を追われ、江戸周辺の農村の治安をますます悪化さ せることになった。
★老中水野忠邦のダメダメ度がよくでていますね。
1843(天保14)年には、将軍家慶が67年ぶりに日光社参を実行して幕府権力の起死回生をはかろうとしたが大出費による財政悪化と、夫役に動員された農民たちの不満をもたらすだけの結果となった。
★天保の改革のところ悪口しか書いてなくておもしろすぎる。
…忠邦は老中を退き、印旛沼工事も中止された。改革の失敗はあらためて幕府権力の衰退を示した。
★印旛沼、またダメだったんかい。