トマスワンニャン:富増章成

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天皇の権威はいつ浮上?

山川教科書P234

尊号一件

この事件を契機にして、幕府と朝廷との協調関係は崩れ、幕府による統制機構は幕末まで維持されるものの、天皇の権威は幕末に向かって浮上し始めた。

 

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「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況にし、幕府権力が弱体化して威信を発揮でき なくなると、これにとってかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始め、国の形の中に位置づける発想がとられるようになった。

注)水戸の会沢安(正志斎)は、1825(文政8)年に『新論』を著し、天皇を頂点に位置づける国体論を提示した。

朝廷の側からも、光格天皇のような朝廷復古を求める考え方が強く打ち出 された。

 

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条約の違勅調印孝明天皇の怒りをまねき、一橋派の大名や尊王と攘夷をとなえる志士たちから強い非難の声が上がった。

 

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この頃からイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待するようになった。

 

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大政奉還の上表で機先を制せられた倒幕派は、12月9日、薩摩藩などの武力を背景に朝廷でクーデタを決行し、王政復古の大号令を発して、 天皇を中心とする新政府を樹立した。これをもって、江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれた。

 

新政府は、将軍はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃止して、天皇のもとに新たに総裁・議定・参与の三職をおき、参与に薩摩藩やそのほか有力諸藩を代表する藩士を入れた雄藩連合の形をとった。

 

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戊辰戦争が進む中で、新政府は政治の刷新を進めた。まず1868(明治元)年 1月には諸外国に対して王政復古と天皇の外交主権掌握を告げて対外関係を整え、ついで3月には五箇条の誓文を公布して、公議世論の尊重と開国和親など新政府の国策の基本を示し、天皇が公卿・諸侯・もろもろの官を率 いて神々に誓約する形式をとって天皇親政を強調した

 

また政府は関東鎮圧とともに7月(1868)に江戸を東京と改め,

8月には明治天皇即位の礼をあげた。

 

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版籍奉還の際に、政体書による太政官制は改められ、祭政一致天皇親政の方針から大宝令の形式を復活して神祗官を太政官の外におき太政官のもとに各省をおく組織となった。

 

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1872(明治5)年12月には西洋諸国の例にならって暦法を改め 旧暦(太陰太陽暦)を廃して太陽暦を採用し、1日を24時間とし、のちには日曜を休日とするなど、長いあいだの行事や慣習が改められた。

注)『日本書紀』が伝える神武天皇即位の日(正月朔日(ついたち)) を太陽暦に換算して紀元節(2月11日)とし、明治天皇の誕生日である11月3日を天長節と定め、祝日とした。