トマスワンニャン:富増章成

歴史や思想を知っておくと便利です

榎本外相の意見書

第一次松方正義内閣の外相は榎本武揚でした。

大津事件の後です)

下の史料は、榎本武揚の意見書の史料です。

山川出版社の日本史資料集P276

 

井上と大隈を批判しています。

 

「現行条約の我に有害なること概ね如是を以て、之が改正を加へんとの冀望は既に岩倉大使欧米行の時に起こり、彼地に於て談判の端を試たるも実際何等の結果を見るを得ざりき。
 …明治十五年に至て、外務卿井上伯は各国公使と条約改正予議会なる者を開き、我国権回復の緒を開き、以て大に改正談判の歩を進め、同十九年二十年間、同伯改正談判の基礎に向て全く一個の生面を開けり。即ち領事裁判権の廃棄を以て、内地全開の交換物と為せること是なり。当時我国の民法商法等の諸法典猶未た編成に至らざりし而已ならず、民刑両法に於て、満足の結果を得る能はさりしを亦恠むに足る者なし。然れども税額の増加即ち我国益上の談判に至ては著しく歩を進めたりしが、国権上に対し不完全の条項ありと云ふを以て談判中止となり、同二十二年大隈伯の談判に至りては、裁判権並に其他の条件に於いても、前案に比すれば更に一層の歩を進め、既に欧州一二の大国政府は其成案に記名し、若しくは批准するに至りしも猶我国権上に対し不完全の条項あるを免れずと云ふを以て、是れ亦其成績を見るに及ばずして我より端を開き、我より之を閉るの姿となりて止めり。青木(青木周蔵大隈伯の後を承け談判を続くに至りて、遂に能く殆ど対等条約に近き立案を提出し、而して英政府をして一二条項除く外は 其重要の部分を承諾せしむるに至りたるは、殆ど意想外の結果と謂はざる可らず。是れ固より同子が周到の計画と熟練の談判に坐すると雖も、抑も亦一は井上大隈二伯の苦心焦慮より生せし結果と、一は亜州全局の近況、英政府をして深省を発せしめしにあらずや。亜州全局の近況とは西伯里亜(シベリア)鉄道の起工是なり」

 

税額の増加とは、関税に関することです。